逆 説 幸 福 論

水のように考えること

非凡と平凡。

一般的に、才能があり、フツーではない、非凡なものに人々は群がる。一方で、優れた特色もなく、面白みに欠ける平凡なもののことは無視同然。

そうなればもちろん、人は自然と躍起になって非凡を目指す。ところがどっこい、非凡になろうとすればするほどいつのまにか平凡になっていく。結局多くの人がそうなろうとしているからだ。

つまり、「非凡になる」ということほど平凡なアイディアはないのだ。

この世のありとあらゆること、なんでもできる全能者。100mを1秒で走ったり、空を飛んだり、天気を自在にコントロールしたり、マナとカナを的確に見分けたり。

しかし、もしそんな人物が本当にいるとすれば、彼 or 彼女は、自分に持ち上げられないほどの重い石を持ち上げることができるのか。

「自分に持ち上げられない」のだから、持ち上げることはできない、しかしそれでは「なんでもできる」ことにならない。それは全能者でもなんでもなく普通のおっちゃんだ。つまり、だ。全能者は『できないということ』が絶対にできないのである。

よって、真に全能な者はこの世に存在しないのである。


 

平等な法。平等な政治。平等な労働環境。現代社会で最も重要視される項目の一つ、平等。それだけ人々に取って大切な平等だが、しかし必ずしもそれが幸せを運んでくるとは限らない。

というのも、幸せと言うものは差があってはじめて発生するもの。断っておくが、これはなにも他人の不幸を嘲笑したりすることではない。損した人がいるから儲ける人が出てくるわけで、もめ事があるから弁護士は生活できるわけで、それはごくごく自然なこと。

不平等がなければ、人の成長はあり得ない。つまり、世の中が完全に平等になれば、幸せな人は一人もいなくなる。そう、どのみち人はみな平等に不平等なのである。

 

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