逆 説 幸 福 論

水のように考えること

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『だーるまさんがこーろんだ。』

誰もが一度は幼い頃に経験したことだろう。オニが見ていない間、他のプレイヤーたちは動くことができ、オニが目を開けて振り向いた瞬間、ピタッと静止しなければならない遊び。


我々が見る世界も同じようなものではないか。


全てのものは知覚によってできている。自分が目をつぶっている間、さっきまで目の前にあったものがピクリとも動いていないとは言い切れない。そしてそれは目を開けると同時にまた元の場所へ。そう、物質は人に認識されるまでは構成されず、それは見た瞬間に構成されるのかもしれないのである。


始業式の校長先生の話や、酔っぱらった上司の武勇伝。デーブ•ス◯クターのギャグや、年越しをハワイで過ごす芸能人へのインタビュー。その中身は『意識』しなければ聞こえてこないし、自分の名前を呼ばれているのにボーっとしていて気づかなかった時。その声は自分には届いていなかった、聞こえてこなかった、つまり自分の中では存在していなかったことと同じである。

それはいくら自分がイイ話を持っていても、聞く人がいなければその話は存在しなかったことと同じであり、あなたがいても何も行動しなければ、あなたが存在していないことと同じである。

いくら『ありがとう』と思っていても、伝えなきゃ、そのありがとうは一生存在しない。

何度でも起き上がり、気持ちを伝えよう。




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パソコンのキーボードを適当に叩いて遊んだことはないだろうか? 

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こんなふうに意味のない文字が並ぶ。でも続けて打っていると、たま〜に簡単な言葉ができちゃったりしますよね、続けると。

ということは、ひたすら続ければ、無限に続ければ、いつかまともな文章を作り出すことも可能なのである。そう、たとえ猿でも打ち続ければ『ハムレット』のような名作だって書くことも可能なのである。もちろん『猿の惑星』も。

しかし、当然完成までにかかる時間は計り知れない。『banana』を打つ確率は1京分の1、たとえ秒速10万字打ったとしても100文字完成させるためには太陽の寿命の1無量大数倍の1000京倍かかるという。もうワケがわからない。完成させる頃にはパソコンがなければ、『文字を打つ』という概念すらきっと存在しないだろう。

でも、言葉、例えば『ありがとう』。

『あ』と『り』と『が』と『と』、そして『う』が並んだだけである。それぞれ一文字だけ言われても何のことかさっぱり。きっと『は?』と返ってくるだろう。ごちゃ混ぜにしても同じ。一生通じない。ところがただの文字の配列も、ある順番に並んだとき、それは魔法のように人々に勇気や愛を与えるものに生まれ変わる。

そう、たとえいつかパソコンがなくなっても、この先文字を打つことは無くなっても、あなたが言葉によって人の胸を打つこと、それは無限に可能なのである。

一皮むけたな。

 

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