逆 説 幸 福 論

水のように考えること

タグ:アイディア

仕事や恋愛、人間関係などに行き詰まったとき、ヒトは気分転換という行動に出る。溜まったものを吐き出さなければ、いずれパンクしてしてしまうからだ。旅行やゲーム、子どもやペットと遊んだり、散歩、タバコ、マッサージ、パチンコなどなど、その手段は様々。

さて、アタマを一度リセットすることで、結構な確率で何かひらめいたりする。しかし、よくよく考えると「なぜこんなカンタンな答えが最初から出てこなかったのだろう?」「なぜ行き詰まったのだろう?」と、思うことは少なくない。

それもそのはず。アタマの中は日々の業務や問題でパンパン。新しいアイディアが浮かぶすき間すらなかったのである。つまり、だ。アイディアが出なくなったから気分転換する人は、気分転換をしなかったからアイディアが出なかった、とも言えるのである。



非凡と平凡。

一般的に、才能があり、フツーではない、非凡なものに人々は群がる。一方で、優れた特色もなく、面白みに欠ける平凡なもののことは無視同然。

そうなればもちろん、人は自然と躍起になって非凡を目指す。ところがどっこい、非凡になろうとすればするほどいつのまにか平凡になっていく。結局多くの人がそうなろうとしているからだ。

つまり、「非凡になる」ということほど平凡なアイディアはないのだ。

誰とでもすぐに打ち解けられ、人付き合いに積極的な人、社交的な人。 大衆とは違った角度からものごとを見つめ、独自の切り口で発想を展開する人、独創的な人。単刀直入に言うと、社交性と独創性は両立不可能だ。

というのも、社交的になろうとすればするほど、嘘でも人と同じアイディアや意見を持っていなければならない。でないといくら自分が社交的でも、もの好きを除いて、多くの人は自分には寄ってこない。人が寄ってこなければ社交する場もなく、従ってその人を社交的とは呼べない。

また、独創性を求めれば求めるほど、その意図を汲める人は減少。しまいに誰にも理解されなくなるだろう。いき過ぎたモダンアートがもはや誰にも理解されなくなってしまうかのように。

しかし誰一人として理解不能な発言をする人こそ究極に独創的ではないか。なんせ "独" 創的なのだから。つまり、だ。社交性を磨くには独創性と非社交的になり、独創性を磨くには社交性と非独創的にならなければいけないのである。 

どうです?こんな矛盾と社交的に、なれそうですか?

 

『もしも6億円当たったら』『もしもイケメンにデート誘われたら』『もしもトップモデルになれたら』..。

我々が妄想をするとき、それがあまりにも浮世離れしていれば、周りからは現実から逃げようとしている、いわゆる現実逃避をしていると心を疑われる。しかし実際の発明や革命、現実世界にある画期的な全てのアイディアの第一歩は、そんな『もしも』から始まっている。

逆を言えば、現実に使えるアイディアを生み出す『妄想』を否定している者こそ、妄想から逃げている、つまり一番現実から逃げていたりするのである。

そんな人には『妄想逃避』と揶揄返してやろう。


 

人の意見やアイディアを無視し続ける冷淡な男が有罪になった。判決は『無視刑』。自分が他人に行った無視の痛みを理解させるため、一年間、男は世界中の人に文字通り無視され続ける。

判決直後、「どうってことない」と開き直り女風呂に入ったり無銭飲食を繰り返す男だったが、ある日大きな事故に遭ってしまう。ケガを負ったのにも関わらず誰も救急車を呼んでくれなければ自力で病院に行っても受付すら通れない。男は絶望のどん底に落ちてしまうがなんとか一命を取りとめる。

やがて一年の刑期を終えた男は以前とは全くの別人のように人の気持ちを理解できる人間に生まれ変わっていた。のも束の間、ある日男は別の無視刑囚にバッタリ出くわす。哀れに思った男は話しかけ、さらに熱い抱擁(※無視刑囚に接することは法律で固く禁じられている)をしてしまい処刑されてしまう。今度は人の痛みをわかり過ぎたゆえに..。

という話。無視とは相手を意識してこそはじめて成り立つ行為。もしあなたが無視されて孤独を感じているのなら、そんなつまらない感情など無視してしまえばいい。


参考:『新トワイライトゾーン』(※一部脚色)

他人の意見は参考にはしたいが、なるべく自分のことは自分で決めたいもの。

『心理的リアクタンス』とは、人から提案されたアイディアがたとえ自分にとってプラスなものだったとしても、強制されればされるほど強い反発心が生まれてしまうこと。 

自由を奪われたら奪われるほど自由を求めたり、「勉強しろ」と言われるとしたくなくなる。仕事でも勉強や礼儀でも、なんでも強制的にさせるとうまくいかないもの。なのでもう強制するのは絶対にやめましょうね!絶対ですよ!
 
 

ラテラルシンキング(水平思考)とは、筋道を立てて論理的に考えるロジカルシンキングとは違い、問題解決のために常識や固定観念にとらわれず新しい発想を生み出していくこと。有名な例(出典元不明)でいくと、

Q:13個のオレンジを3人で分けるにはどうすればいいのか?

A:3人で4個ずつ分け、残り1個を3等分する。


が、正解。でもこれはロジカルシンキング。枠組みの中で最大限の利益を求め論理的に問題解決を試みる。これはこれで素晴らしい。しかし、ラテラルシンキングの答えはまだまだ、無限にある。例えば、

A:ジュースにして3等分する。 や、

A:種を植えて5年後みんなで食べようね。

なども、正解。オレンジの加工は禁止していないし、時間を無視するなとも言っていない。つまりラテラルシンキングとは枠を飛び越えたり、枠自体を無視して考えること。

もしこれを「ヘリクツ」や「ズルい」と言っている人はそれでいい。もともとラテラルシンキングに向いてなかったのだろうし、そんな人のアイディアは5年経たとうが何年経とうが一向に実らないだろう。


アイディアというものは煮詰めて考えるよりも、入浴中やマッサージ中、音楽鑑賞中に散歩中などのリラックスタイムに向こうからやってくることの方が多い。

これは『怠惰思考』と呼ばれるもので、一度対象から離れることで俯瞰して見ることができ、そうすると潜在意識から自ずと新しいアイディアや解決策が浮かび上がってくるという、とても理にかなったものである。

つまりアイディアを得るためには『考える』ことと『ダラける』こと、どちらがいいというわけではなく、どちらも必要なのである。

怠けないと良いアイディアは生まれません。精一杯頑張ったら精一杯怠けてみましょう。怠けるのも立派な仕事。

どうです?悪くないアイディアでしょ?
 

この広い広い世界のどこかに、音を立てずに倒れる木が存在するという。 その木はある国のある森の奥深くに生えており、ある時期なるとに急に倒れるらしいのだが、誰もその音を聞いたことがなければ、その姿カタチさえも誰も見たことがないという。

ん?ちょっと待てよ。誰もその姿や音を知らない?誰も見たことがなければその木の存在を証明するのには証拠が不十分過ぎやしないか?そんなもの存在しないことと変わらないだろ。

そう、その通り。誰も見たことないものなんて存在しないことと変わらない。イコールこれはガセネタ。エイプリルフールが終わったというのに申し訳ない。

でも、ということはこれと同じようにいくら自分が画期的なアイディアやスベらない話を持っていても、誰かに聞かれたり見られたりしなければそれは存在しないことと同じで、どれだけ心の中で人に感謝をしていても、どれだけ相手のことが好きでも、伝えなければはじめから存在しないことと変わない。つまり行動を起こさなきゃ自分はこの世に存在しないことと同じなんじゃないか。

倒れたって起き上がればいい。行動を起こすことであなたはこの世界に在り続ける。

スベっても知んないけどね

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