逆 説 幸 福 論

水のように考えること

タグ:パラドックス

バズワード。

パスワードではなくバズワード。一見、説得力のある言葉のようで、実際は定義が曖昧で具体性のない言葉のことで、例えば「ユビキタス」「ロハス」「グローバルスタンダード」「おもてなし」「アンチエイジング」「女子力」「コミュニケーション能力」などがそれにあたる。

いまなお世界に増え続けるこのバズワード。再度言うと、一見、説得力のある言葉のようで、実際は定義が曖昧で具体性のない言葉、バズワード。一見、説得力のある言葉のようで、実際は定義が曖昧で具体性のない言葉、バズワード。

よくよく考えると、実はこの「バズワード」というワード自体がそこまで具体性のないことに気づく。そう、バズワードこそ一番のバズワードなのである。


検診。

病気にかかっているかどうかを調べたり、その予備軍ではないかどうかを判断するために行う診察や診断のこと。

これを受けたことのない読者は、まずいないだろう。学校や会社で強制され、またはボランティア団体に促され、今日もどこかで検診が行われている。間違いない。そしてその検診によって今日も誰かが救われている。こちらも間違いない。

しかし、それと同時に誰かを不健康にしている、かもしれない。

というのも、検診を受けて何も異常がないこと、例えば飲んべえの人が、自分の肝臓や脳、血液に何の異常を認められなかった。つまり健康だったらさあたいへん。今晩は間違いなく日本シリーズを制したような祝勝会が開かれるだろう。

ヘビースモーカーやカフェインラバー、ポテチイーターやソクセキMENにネブソクン(※勝手に命名)もみ~んな一緒。そう、『健康』というハンコが押されてしまえばかえって依存量は一気に増えてしまう。

つまり、だ。検診をすればするほど多くの人を健康にするが、それと同時に多くの人を不健康にしてしまうのある。 

こんなひねくれたものの見方をする私。連休明けくらいにちょっと検診行ったほうがいいな。 
 

こんにちは~。お盆シーズン真っ盛り。帰省中の方も、お出かけ中の方も、はたまたおうちでのんびりと過ごされている方にも大切(?)なお知らせです。

2012年7月23日に始まった弊サイトも、お陰さまで丸一年が経ちました。この一年、とにかく書くことが楽しみでした。しかし、思い切って不定期更新にしようと思います。理由は現在弊サイトと平行して書いている英会話エッセイ 『リンゴリッシュ 元ニューヨーカー大木凛悟のひとこと英会話教室』や、家電紹介サイト『Smart Shoppin'』に力を入れていくためです。

また、他にもいくつかサイトを持っており、同時に毎日記事を更新していくのは、記事の質を下げてしまいかねず(元々低いのがもっと)、これからは不定期更新として書いていこうと思います。たいへん勝手ですが、今後ともよろしくお願い致します。

『逆説幸福論』管理人 大木凛悟 

平穏な村に、突如人喰いワニが現れた。

ワニは子供を人質に取り、その子の母親にこう言った。「おいお前!ガキを喰ってほしくないか?いいだろう。ならオレがいまからすることを当ててみろ。当てたらガキを返してやる。だが!外れたらお前の目の前でムシャムシャと喰ってやる!」 

こいつはてぇへんだ。もちろん母親はあわてふためき取り乱して動揺ののちパニックを起こしている、かと思いきやなぜかニンマリ。あまりのショックで気が狂ったか。いやいや、そうではない。というのも、母親はワニの言葉をしっかりと聞いていた。そしてワニにこう言い返す。

「アナタは子供を食べるでしょ」

へ?まさかのアンサー。やはりオカシくなってしまったのか。かわいそうに。ところが、ワニは子供を目の前にして硬直。その隙に子供は自力で逃げ出すことに成功した。なぜか?なぜワニは固まってしまったのか。

じつをいうと、母親の予想はハズレだった。となればワニは違うことを考えていたので子供を食べていいことになる。しかし!食べようものなら母親の予想はやっぱりアタリ。なのでワニは子供を食べてはいけない。でも食べないのなら母親の予想はハズレ。でも食べたら.. んー、まさにワニワニパニック。結局ワニは子供を食べることも食べないことさえもできなくなってしまったのだ。

矛盾という名の猛獣に喰われたワニくんだったのでした。



とある中学校のとある中間テスト。そこにありそうでなさそうなハプニングが発生。なんとクラスの全員が0点を取ったのである。

というのも、全員が問題を勘違いして解答。その問題は英作文で『夢について書きなさい』というもの。問題の意図する『夢』は睡眠時に見る夢。しかし生徒は勘違いし、各々の『将来の夢』を書いてしまった。

テスト前に夢に関する授業は行っているので先生に非は認められず、本来なら間違いとするところなのだが、なんせ全員が間違えたことにより生徒は一斉に反発、問題の説明不足を訴えた。

これには先生もお手上げ。結局、問題そのものが変えられて生徒の0点は帳消し。『将来の夢についての英作文』として再評価されたのである。めでたしめでたし。

全員が不正解ならそれが正解。これが世の中の正解なのである。

 

変人。変わり者。

大衆とは異なった言動や性格を持ち、極端に個性的な人のこと。いい意味でも悪い意味でも使われるが、どちらかというと後者として理解される方が多いかと思う。

例えば、ここに100人の変人がいるとする。みんな似たようなタイプの変人だ。この変人たちを常人に変えるにはどうすればよいか?もう100人、いや200人300人の常人を入れて中和させる。あるいは、どこぞの施設に連れて行き、徹底的に普通の考えを叩き込む。いやいや、もっと簡単な方法がある。

常人を1人、変人の中に放り込めばいい。そうすればあっという間に変人はたった1人になって、あとの100人は常人に。つまり常人から見た変人は変人で、変人から見た常人も変人。どんな人も必ず誰かしらの変人なのである。

私のような常人には理解し難い話ですが。 

え?

 

誰とでもすぐに打ち解けられ、人付き合いに積極的な人、社交的な人。 大衆とは違った角度からものごとを見つめ、独自の切り口で発想を展開する人、独創的な人。単刀直入に言うと、社交性と独創性は両立不可能だ。

というのも、社交的になろうとすればするほど、嘘でも人と同じアイディアや意見を持っていなければならない。でないといくら自分が社交的でも、もの好きを除いて、多くの人は自分には寄ってこない。人が寄ってこなければ社交する場もなく、従ってその人を社交的とは呼べない。

また、独創性を求めれば求めるほど、その意図を汲める人は減少。しまいに誰にも理解されなくなるだろう。いき過ぎたモダンアートがもはや誰にも理解されなくなってしまうかのように。

しかし誰一人として理解不能な発言をする人こそ究極に独創的ではないか。なんせ "独" 創的なのだから。つまり、だ。社交性を磨くには独創性と非社交的になり、独創性を磨くには社交性と非独創的にならなければいけないのである。 

どうです?こんな矛盾と社交的に、なれそうですか?

 

孤独。わかり合える人がおらず、独りであること。

なんせ現代人は孤独を抱えやすい。しかし、それはなぜなのか。電話はもちろん、インターネットを介したメールやチャットにブログや掲示板。コミュニケーションの場はここ数年で何倍、いや、何百倍にも増え、いまや世界中の人と四六時中繋がっていられるではないか。ところが、何を隠そうこれこそが、孤独を作り出している大もとである可能性が高い。

というのも、いつでも誰でも誰とでもコミュニケーションを取れるからこそ、それがなくなると異常に不安になり、疎外感さえ感じてしまう。SNS上に共通の友人が仲良く騒いでいる写真や、呼ばれていない親友の結婚式のお礼コメントを見つけ、哀しい気持ちに。あるいはほんの少し恋人からLINEがなければ、イケナイ妄想が、昼ドラ作家よりも頭に浮かぶ。

つまり、コミュニケーションの場が増えれば増えるほど、人は孤独を感じやすかったりする。たまには電源切って、自分とコミニュケーションする時間も大切、なのかもしれませんね。

 

幸か不幸か、世界には様々な格差がある。収入や地位、知名度や生まれや育ちにまでも格差がある。そんな格差を埋めるべく、世界では様々な支援活動が行われているが、そんな温かい光景の中にも、パラドックスは抜かりなく潜んでいる。

例えば『貧富』という格差。この格差を埋めるには本人の努力以外に何が考えられるか。仕事を与えてもいいのだが、それではちと時間がかかる。加えてそういう仕事にさほどの高収入も期待できない。ならば、だ。手っ取り早くお金をあげればいいのである。

優しい。いや、易しい。二日酔いの朝のおかゆくらいやさしい。いや、貧血で倒れた時の保健室の先生くらい、いや、エスカレータ式の高校くら、あ、いや、失礼。少々脱線してしまった。が、そう、こんなナマやさしい答えなら誰でも思いつく。ゆえに正解ではない。 

というのも、貧乏人にお金を与えれば、ギリギリ貧乏じゃない、または本当に貧乏な人から見れば十分裕福か、今度はそんな境目に立っている人たちが一番苦しい生活を余儀なくされる。つまり、貧乏人に金銭を与えるだけでは何の解決にもならず、むしろ事態を悪化させてしまうのである。

そう、世の中はそんなにやさしくない。


車好きや映画好き。音楽好きに野球好き。旅行好きやラーメン好き、酒好き、ネコ好きにオンナ好き。

何を好きになるかならないか、我々には自由がある。しかし世の中は面白いもので、何かを好きになればなるほど、それの嫌いな部分もクローズアップして投影される。 

例えば、『車好き』になればなるほど理想の車種は絞られ、それにそぐわない車には乗らなくなる、つまりダサい車は嫌いになる。また、『映画好き』になればなるほど駄作に対する評価は厳しくなる、つまり二流三流映画は嫌いになる。『ラーメン好き』になればなるほどラーメンが嫌いになり、『ワイン好き』はワインが嫌いになり、『野球好き』で野球選手になった人が野球に対して抱えるストレスは尋常じゃないだろう。

好きになればなるほど嫌いになってしまう。だけど好き。こんな矛盾した世界が好きでたまらない。



『もしも6億円当たったら』『もしもイケメンにデート誘われたら』『もしもトップモデルになれたら』..。

我々が妄想をするとき、それがあまりにも浮世離れしていれば、周りからは現実から逃げようとしている、いわゆる現実逃避をしていると心を疑われる。しかし実際の発明や革命、現実世界にある画期的な全てのアイディアの第一歩は、そんな『もしも』から始まっている。

逆を言えば、現実に使えるアイディアを生み出す『妄想』を否定している者こそ、妄想から逃げている、つまり一番現実から逃げていたりするのである。

そんな人には『妄想逃避』と揶揄返してやろう。


 

何でも揃うコンビニに、携帯一人一台は当たり前。漢字の読み書きや計算に、翻訳ですら機械がやってくれ、極めつけはクリック一つで世界と繋がるインターネット。急速に便利になりゆく現代社会。しかしその一方で、「幸せだ」と感じる人は以前より減っており、むしろ現代人が抱えるストレスの増大は留まることを知らない。

つまり、物理的な幸せと心理的な幸せは必ずしも比例せず、むしろ相対することがある。携帯電話を例に挙げれば、離れた人といつでも連絡が取り合えるようになった反面、24時間仕事やパートナーに拘束され、全身を見えない鎖で繋がれてしまった人は残念ながら少なくない。

しかし、だからと言ってもはや携帯やネットを手放して生きては行けないだろう。そう、lie(嘘)なしではbelieve(信じる)は綴れないように、『辛い』と『幸い』もいつも一緒に歩いてくるのである。


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