逆 説 幸 福 論

水のように考えること

タグ:哲学

この世のありとあらゆること、なんでもできる全能者。100mを1秒で走ったり、空を飛んだり、天気を自在にコントロールしたり、マナとカナを的確に見分けたり。

しかし、もしそんな人物が本当にいるとすれば、彼 or 彼女は、自分に持ち上げられないほどの重い石を持ち上げることができるのか。

「自分に持ち上げられない」のだから、持ち上げることはできない、しかしそれでは「なんでもできる」ことにならない。それは全能者でもなんでもなく普通のおっちゃんだ。つまり、だ。全能者は『できないということ』が絶対にできないのである。

よって、真に全能な者はこの世に存在しないのである。


 

『百聞は一見にしかず』

百回聞くよりも一回見る方が確かなこと。ところが、人間の視覚というのは面白いもので、見たはずのものが実は見えてなかったりする。例えば、

「あ、ほら、あそこにウグイスがいるよ」
「え、どこどこ?」
「ほら、あそこあそこ」
「んー . . . . . .え?どこ?わかんない. . . .  あっ!ほんとだ」

と、指を指されてからウグイスを見つけるのに何十秒もかかってしまった。その間ウグイスは飛んでもいないし、たった一歩も動いていない。間違いなくその人の視界の中にウグイスは存在し、見えていたはずなのだ。

つまりものごとは単に目で見るだけでは不十分で、それを脳で認識してはじめて見ていることになる。「え、駅の横に喫茶店なんてあったっけ?」「え、そんなやつクラスにいたっけ?」..。と、これこそが視覚の死角で、いくら視界に入っていたとしても認識しなければ結局それはないものと同じで、見ていないのである。

そう、この記事もね。 


沼男(ぬまおとこ)とは、ヒトの同一性やアイデンティティの問題に関しての思考実験のことで、

ある男がハイキングの途中激しい雷を伴ったゲリラ豪雨に遭い、避難の途中、ある沼の近くで雷に打たれて死んでしまう。しかし、その瞬間同じタイミングで沼にも落雷があり、あろうことかその沼の泥と雷のエネルギーとが化学反応を起こし、男と全く同じ細胞や分子構造を持ったバケモノ、沼男が誕生してしまう。

カラダも脳も記憶も知識も、何もかもが死んだ男と同じ。なので沼男は何事もなかったかのように死んだ男が住んでいた家に帰り、死んだ男の寝ていたベッドで、死んだ男の読みかけの小説を片手に寝、翌朝死んだ男が通っていた会社に行き、そしてその夜あるサイトの『泥男』という記事を見る..。

現実味の極めて薄い話だが、しかし泥男でなくとも、我々ヒトの75兆個ある細胞も約7年周期で全て生まれ変わるという。つまり細胞レベルでいえば7年前の自分とは全くの別人。 

なら7年後の誰かさんが泥沼にハマらぬよう今からできること、やっときましょうか。


この広い広い世界のどこかに、音を立てずに倒れる木が存在するという。 その木はある国のある森の奥深くに生えており、ある時期なるとに急に倒れるらしいのだが、誰もその音を聞いたことがなければ、その姿カタチさえも誰も見たことがないという。

ん?ちょっと待てよ。誰もその姿や音を知らない?誰も見たことがなければその木の存在を証明するのには証拠が不十分過ぎやしないか?そんなもの存在しないことと変わらないだろ。

そう、その通り。誰も見たことないものなんて存在しないことと変わらない。イコールこれはガセネタ。エイプリルフールが終わったというのに申し訳ない。

でも、ということはこれと同じようにいくら自分が画期的なアイディアやスベらない話を持っていても、誰かに聞かれたり見られたりしなければそれは存在しないことと同じで、どれだけ心の中で人に感謝をしていても、どれだけ相手のことが好きでも、伝えなければはじめから存在しないことと変わない。つまり行動を起こさなきゃ自分はこの世に存在しないことと同じなんじゃないか。

倒れたって起き上がればいい。行動を起こすことであなたはこの世界に在り続ける。

スベっても知んないけどね


『写真で見るより男前ですね。』


写真写りが良い人悪い人。実物の方が良い人悪い人。そもそも『実物』とはいったいなんなのか。実物とは、一般に肉眼で捉えられる画像のことである。


写真はカメラのレンズを通して撮られる。私たちの眼もそうだ。眼はただのレンズでしかなく、そこから電気信号として情報が脳に伝わり、画像を認識する。

眼が重要なように、カメラの世界においてレンズ選びはものすごく重要で、それ一つで写し出す世界が全く違ったものになる。しかし人間のレンズ(眼)はカシオやニコンで大量生産されているような精密で同じものではなく、視力も違えば瞳の大きさ、目の色だって違う。そして記録メディア(脳)は最も異なっている。

カメラによって写真写りが違えば、他人があなたを写し出す『他人写り』も違うはず。それぞれが写し出す世界は全く異なっている。

どうせ見てる世界が違ってるんだったら、人の目なんか気にせず自分を貫けばいい。

焦点を当てるのはどこでもない、自分自身。



ちょっと笑点チック。





背の低い人がいなければ、背の高い人は存在しないだろう。 


太った人がいなければ、痩せた人は存在しないし、天才がいればバカがいて、カタブツがいればチャランポランがいるだろう。アンガールズがいなければ内山君は存在せず、マツコもデラックスでも何でもなくなるだろう。


そして、

不幸な人がいなければ、幸せな人は存在しないだろう。







平等な社会を目指すのは当然不平等な現実があるからであり、それは必ず対になっている。

そう。光があれば陰があり、表があれば必ず裏がある。世界はシンメトリーである。


私たち人間の感じ方にも必ず裏と表があり、『意志が強い人』は『頑固』とも取れ、『積極的な人』は『あつかましい』と取られることもしばしば。『素直な人』も『自主性がない人』になり、『さっぱりした人』は『単純なヤツ』扱いされるかもしれない。



感じ方。

ある人には風が暖かく感じられ、別の人には冷たく感じる。

風そのものに答えはなく、それは各々の感じ方でしかない。


他人の価値観に合わせていてはきりが無い。




いつもやさしく愛想よくなんてやってられないよ。

理由はかんたん。時間がないんだ。




- スナフキン -


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逆説とは英語で言うparadox(パラドックス)のことであり、簡単に言うと、


• 矛盾しているようで正しいこと。

• 正しいようで矛盾していること。


• ただの勘違い(自己矛盾)。


また、逆説の定義は曖昧で、ジレンマやギャップなどと一色単に逆説と呼ばれることもある。

しかし、そもそも言葉とは、どれほど丁寧に説明をしても、少なからず矛盾を含んでいるもの。まさに「逆説」というこの言葉自体がそれを表しているの、かもしれない。

 

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