逆 説 幸 福 論

水のように考えること

タグ:相対主義

『遊びにいってきます。』
『先に宿題してからにしなさい。』

『ケーキ食べよ。』
『こんな夜中に?やめなさい。』

『あの人のことが気になってるの。』
『やめときなよ、あんなのたいした男じゃないよ。』 

 『もう!イチイチ人の考えにクチ出さないでよ!あなたって人はホントに寛容じゃないんだから。』
『君の方こそ。』

『え?なんでよ!』
『だって「寛容であること」っていうのは、寛容でないことも寛容に受け入れないといけないだろ?だから君も全然寛容じゃない、むしろ不寛容だよ。』

『おだまり!』
『ほらまた。寛容じゃない。』 




さて、ケンカ中の二人は放っておいて、実はこの二人、どちらもとても寛容なんです。

『寛容』とは相手の行動や言動を受け入れてやること。両者は互いに言った言葉に対して必ず反応している。つまりしっかり相手の意見をキャッチしたうえで、そのボールをちゃんと相手に投げ返している。



そう、実は最も寛容な人とは一番気が短い人で、最も寛容でない人とは一番我慢強い人。


そんなに無理して怒りを我慢する必要はない。たまには寛容に怒りを認めてもいい。

それはきっとその人に必要なはずだから。



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今、目の前にあるそのスマートフォンやパソコン。その裏に本当に裏があるか証明できるか。 


ひっくり返して確認する。しかしそうすると今度は表が見えない。というよりも既に先ほどの表が裏側化している。そう、人は正面から物事を捉えると、対象の裏側を見ることができない。たとえ鏡を使っても今度はその鏡の裏が見えない。


そう。ある人から見ればそれは表で、またある人から見ればそれは裏。何が正しいのか何が正しくないのか、そんなもの多数決に他ならず、結局、人は自分の視点でしかモノを見ることができない。全員が不正解ならやがてそれは正解に。



光は闇があるから美しい。闇があるから光は輝ける。己の欠点を認め、陰をさらけ出せば、人は思い切り輝き出す。

あんなに輝く太陽にも真っ黒なシミがあるように。


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