逆 説 幸 福 論

水のように考えること

タグ:言語

この世には小田和正ばりに言葉にできないことがたくさんある。熟練した技術や勘から生まれる職人芸、カタチのないものをカタチにする芸術的感性、長年の経験による危機管理能力..。それらは『暗黙知』と呼ばれ、部分的•全体的に言語化できない知識とされる。

暗黙知はなにも特別な人にしかないものではなく、自転車の乗り方なんかもそうである。自転車に乗ったことのない子供に言葉であーだこーだ説明しても複雑で伝わりにくいが、なにも言葉に表さなくても、それを体験させ一度習得してしまえばその感覚を忘れることはなくなる。このように知識には言語化できる知識と言語化できない、またはそれが困難な知識がある。

そもそも、『脳』の原型が形成されたのが約5億年前なのに対して『言葉』が生まれたのは諸説あるがおよそ10万年前だと言われており、つまり脳に比べれば言葉なんぞまだまだぺーぺーなのである。 

でも、そんな脳は言葉に出逢えたことにきっとこう言うだろう。あなたに会えて本当によかった、と。

la la la、la la la.. ♪ 

 





砂山から砂粒を1粒取っても、まだ砂山である。







 2粒取っても、まだまだ砂山である。












 3粒、4粒、5、6 . . .100、1000、100000、1000000000.... 









そして、ついに残り一粒になったコレ。





コレは砂山なのか?


砂山と呼べるのか?



















おそらくあなたはこれを

『んなわけねーだろ。砂 " 山 "なんだから』


と否定するだろう。









なら、いつからそうじゃなくなったのか、答えられますか? そしてそれは何粒の時点でしたか?


残り何粒でしたか?


10000粒ですか?

1000粒ですか?








. . . .






『ん" ~ . . . . . . . .  このくらい!!』






と、あなたは体を使って説明し出すでしょう。


あなたより大きいひとも、小さいひともいて、

その人たちの見え方や、感じ方も、考え方も、それぞれ違うというのに。
























これは、


境界線に関する、全ての用語に定義を持つ『数学』と、そうではない『言語』がぶつかったときに起こってしまうパラドックスです。



『砂山』に "何粒から何粒までが砂山だ。"というキチッとした定義が無いのにも関わらず、キチッとした答えを求めようとしたからです。


















そうです。

 

人はたいがい、テキトーで、生きてます。
























人類みな高田純次です。


























 

人からどう見られているかなんか捨ててしまい、


自分自身を解放すると、人は魅力を増していく。




そして何より自分の人生が楽しくなる。


 
















テキトーに生きると人生がうまくいく。



























たぶんね。




































最後に、

名言を一つ。







『世の中わからないことが多いけど、街中を裸で歩いてはいけないことだけはわかってるんだ。』



-高田純次-









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