逆 説 幸 福 論

水のように考えること

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日本酒、ウィスキー、ワインにシャンパンはもちろんのこと、ビールやチューハイも、ノンアルコールも(?)粕汁も(?)ダメ。とにかく「酒」というジャンルにめっぽう弱い人のことを、人類は「下戸(げこ)」と呼ぶ。

とはいえ、社会人なら付き合いのひとつやふたつ、みっつやよっつは避けては通れない道。「弱い」「強くないんです」ぐらいでは、結局なんだかんだ上司や仲間に飲まされる。いや、ツブされる。

いっそ「コーラください!」と、スパっと宣言したいものだが、それにはもれなく酒のチカラが必要だ。


大きく分けると人間は、喜、怒、哀、楽、この4つの感情によって動いている。もしくは動かされている。

しかし、その枠にハマらない感情になるとき、そんなときは少なくない。そんな少なくない感情になったとき、人はよくこう言う。「言葉では言い表せないほどだ」、と。

言葉では言い表せないほど美しいものを見たとき、言葉では言い表せないほどおいしいものを食べたとき、言葉では言い表せないほどがっかりしたとき..。

だが、「言葉で言い表せない」のであれば、たったいま、言葉で言い表したものは一体なんなのか。言葉で言い表せない感情なはずなのに、言葉で言い表せてしまっているじゃないか。

言葉で言い表せない感情は、言葉では言い表せないとも、言葉で言い表せるとも言えないとってもとっても不思議な感情。

どれくらい不思議かって?

そりゃあもう、ものすごく不思議。とてもじゃないけど、言葉じゃ言い表せない。


バズワード。

パスワードではなくバズワード。一見、説得力のある言葉のようで、実際は定義が曖昧で具体性のない言葉のことで、例えば「ユビキタス」「ロハス」「グローバルスタンダード」「おもてなし」「アンチエイジング」「女子力」「コミュニケーション能力」などがそれにあたる。

いまなお世界に増え続けるこのバズワード。再度言うと、一見、説得力のある言葉のようで、実際は定義が曖昧で具体性のない言葉、バズワード。一見、説得力のある言葉のようで、実際は定義が曖昧で具体性のない言葉、バズワード。

よくよく考えると、実はこの「バズワード」というワード自体がそこまで具体性のないことに気づく。そう、バズワードこそ一番のバズワードなのである。


検診。

病気にかかっているかどうかを調べたり、その予備軍ではないかどうかを判断するために行う診察や診断のこと。

これを受けたことのない読者は、まずいないだろう。学校や会社で強制され、またはボランティア団体に促され、今日もどこかで検診が行われている。間違いない。そしてその検診によって今日も誰かが救われている。こちらも間違いない。

しかし、それと同時に誰かを不健康にしている、かもしれない。

というのも、検診を受けて何も異常がないこと、例えば飲んべえの人が、自分の肝臓や脳、血液に何の異常を認められなかった。つまり健康だったらさあたいへん。今晩は間違いなく日本シリーズを制したような祝勝会が開かれるだろう。

ヘビースモーカーやカフェインラバー、ポテチイーターやソクセキMENにネブソクン(※勝手に命名)もみ~んな一緒。そう、『健康』というハンコが押されてしまえばかえって依存量は一気に増えてしまう。

つまり、だ。検診をすればするほど多くの人を健康にするが、それと同時に多くの人を不健康にしてしまうのある。 

こんなひねくれたものの見方をする私。連休明けくらいにちょっと検診行ったほうがいいな。 
 

またとないチャンス、絶好のチャンス、ピンチはチャンスなどと、言い回しは色々あるが、そのスパンはまちまち。何年かに一度、または何日か、あるいは何時間に一度のチャンスが訪れるひともいるだろう。そんなチャンスにはあんまりしがみつかないほうがいい。

チャンスを逃すまいと食らいつく。これまで培った経験の全てをぶつけ、ものにしようとする。しかし、あまりにそれにこだわり過ぎて、そうするとそのぶん他のチャンスが見えなくなってしまう。つまり、チャンスにこだわればこだわるほど、そのあいだ他のチャンスを失ってしまうことになる。

時には諦めが肝心。そう、やめとくなら、いまがチャンスですよ。 
 

多種多様な病気が増えるこの世の中で、人々にとって、もはやなくてはならないもの、そう、薬。いっぽう、人々にとって一刻も早くなくなってほしいもの、毒。

しかし、この世には毒があるから薬も存在し、薬があるから毒も存在する。ときに薬は人の人生をボロボロにし、ときに毒は人の免疫力や生きるチカラを増大させる。つまり薬が毒になることもあれば、毒が薬になることもあるのである。

また、それらは目に見えるものだけでなく、世の中にある全ての「快楽」。快楽は薬にもなるが、一歩間違えれば毒にもなる。しかしその毒こそ、次に問題を抱えたときの薬になる。

両者は対極に位置するものではなく、ほとんど同じもの、なのかもしれない。
 

こんにちは~。お盆シーズン真っ盛り。帰省中の方も、お出かけ中の方も、はたまたおうちでのんびりと過ごされている方にも大切(?)なお知らせです。

2012年7月23日に始まった弊サイトも、お陰さまで丸一年が経ちました。この一年、とにかく書くことが楽しみでした。しかし、思い切って不定期更新にしようと思います。理由は現在弊サイトと平行して書いている英会話エッセイ 『リンゴリッシュ 元ニューヨーカー大木凛悟のひとこと英会話教室』や、家電紹介サイト『Smart Shoppin'』に力を入れていくためです。

また、他にもいくつかサイトを持っており、同時に毎日記事を更新していくのは、記事の質を下げてしまいかねず(元々低いのがもっと)、これからは不定期更新として書いていこうと思います。たいへん勝手ですが、今後ともよろしくお願い致します。

『逆説幸福論』管理人 大木凛悟 

ファンタジスタ。主にサッカーで使われる用語で、ひらめきや創造性に溢れるプレースタイルの選手を指す。また、その他の球技や格闘技などでも使われ、伝統芸能や役者、お笑い芸人だって、ファンタスティックな芸で人々を魅了する。

でも、ファンタジスタになるためには、ただ単にひらめきや創造性が必要なわけではない。

例えば、サッカーで相手の裏を突くには、基本を逸脱したプレーが必要である。でもそれは基本を知っているからこそできる行為。また、お笑いで人を笑かせるには、常識を知らない限りいつまで経っても、たとえ人に笑われても笑わせることは難しいだろう。

つまり、ファンタジスタがファンタジスタであるためには、(その分野において)誰よりも基本や常識、つまり当たり前のことをわきまえておかなければならないのである。言わば「普通」のスペシャリストでもあるのだ。

食べ物だけでなく建て物までも年々欧米化していく今日このごろ。そんな今日このごろになる前、子供たちの背徳ゴコロをかき立てまくった禁断の遊び、そう、障子破り。

バレないように指につばをつけて、ゆーっくりとスクリューをかけながら貫通させるあのときの喜びは、何ものにも代え難い。しかしやったはいいものの、ごまかすのはほぼ不可能。見つかればこっぴどく叱られる。でもあの「ぼすっ」という快感..。あの障子の向こう側には何があるのか。本当に窓や隣の部屋があるのか。ひょっとして異次元の世界があるのかもしれない。そんなことまで想像してしまう。

そんな禁断の障子破りにも、時にフィーバーが訪れる。そう、年末だ。年末の張り替え時にはオトナのお墨付き、いや、むしろGOサインが出て、思う存分障子を破ることができる。指でそっとあけてみたり、渾身の右ストレートをぶちかましたり。掟破りの目つぶしだって解禁だ。目は完全にイっている。 

5分経過 . . .

快感よりもむしろむなしさがこみ上げる。なぜだ。なぜあんなにやりたかった障子破りがこうもつまらないのだ。答えは「GOサイン」にある。そう、障子破りは禁じられていたからこそ、面白かったのだ。禁じられていない障子破りなど面白くも何ともない。

叶わないほうが幸せなことは、世の中には山ほどある。

 

ルール、伝統的な慣習や権威、自分を取り巻く全ての環境に息苦しさを感じ、反抗する時期、そう、反抗期。一般的には小学校を卒業したくらいだろうか、青年初期から現れる傾向である。 

とにかく縛られるのが大嫌い。校則を嫌い髪を染めたり、制服のシャツをズボンに入れない。常識を嫌って敬語は一切使わなければ、法律を嫌って酒やタバコに手を出し、原付を乗り回す。深夜になっても家に帰らず、先生や親の言うことなど全くきかない。

しかし、茶髪にピアスに腰パンで、酒やタバコに朝帰り。これでは結局「反抗期」という枠の中でキレイに整列してたりする。

そう、彼らはただ単に、並ぶ場所を間違えただけなのである。
 

門前や庭先などでよく見る、ズラーーーッと並んだペットボトル。

もちろんネコよけだが、もちろん効果などニャい。糞害に憤慨するのもわかるが、うちのニャンたちは枕にして寝ている。

しかし、アレをみた私を含め多くの愛猫家たちは、そんなネコ嫌いの家に、我が子のようにかわいがるにゃんこさんたちを遊ばせては何をされるかわからないので、自宅から出さないようにしたり、別の場所にネコの遊ぶスペースを作ったり、可能であらば最悪引っ越したりする。つまりなるべくその家からネコを遠ざけようとする。

ん?ということは、ペットボトルは、それを置いたネコ嫌いの人がたとえこのことに気づいていなくとも、彼らの思惑通りに機能してしまうのだ。「やっぱりネコって水が怖いんだ」、と。

このように、日常では結果とプロセスが違えども、気づかないうちにうまくいってしまうケースは、決して少なくニャい。

レーダーをくぐり抜け、突如現れる雷雲。街を暗黒の雲で包囲したかと思えば、まるで水瓶をひっくり返したかのごとく、人々を恐怖の海に陥れる。そう、ゲリラ豪雨。

もちろん人々の命を支える恵みの雨でもあるのだが、傘を忘れた人にとっては大惨事。靴の中はもちろん、下着やカバン、携帯までアウトなんてことも。

そんなゲリラ豪雨に見舞われる人々を少しでも救おうと、気象予報士は日々汗を流す。しかし、あまりのゲリラさに、熟練した予報士でさえ捉えきれないことも多々。気象庁はスーパーコンピューターの開発や改良を進めるが、現実問題難しい。

でも、きっと研究が進めば、このゲリラ豪雨も分単位で、あるいは地域単位で予想が立てられるはず。ん?でも、なんかおかしくないか?ゲリラ豪雨が予想できたらゲリラではないのではないか。アイドルが自らのゲリラライブを告知するように、ゲリラ豪雨を予想できてしまっては、まったくゲリラ豪雨ではなくなってしまうではないか。

まあ、わかりませんね。その頃には呼び名が変わっているかもしれませんし、変わってないかもしれません。なんせ未来はいつも、ゲリラ豪雨のように、予想通りにはいきませんから。

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