逆 説 幸 福 論

水のように考えること

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ある種、日本の文化でもある『本音と建前』という言葉通り、日本人が出逢ったばかりの相手と本音で語り合うことはそうそうない。自らの意見や要求を押し出す欧米諸国と比べると、なおさら顕著にその性格の違いが現れる。

ということは、そもそも日本人が考える本音と、欧米やその他の諸外国が考える本音は似ているようで違っている。本音をズバズバ主張しがちな外国人に比べて、我々の本音というのは、言ったことよりも、言わなかったことのほうに多分に存在する。そう、打ち解け合っているように見えていても、それイコール気心が知れているとは、必ずしも限らないのである。

まあ、相手がどう思おうが、自分が良ければそれでいいんですがね。本音を言えばね。

不要。

世の中は不要なものや、不要なことであふれ返っている。着れなくなった服や、それを買ったときについてきた予備のボタン。元カレからもらったぬいぐるみ、溜まりに溜まった明細や、聴かないカセットテープにMD、やらない健康器具に、大きく横に進化した奥さん(?)。自問自答を繰り返す暇もなく、不要なものはどんどん増えていく。


しかしそんな要らないモノは結構要るものだったりする。要らないモノがあってはじめて要るものが認識されるからである。つまり、「不要」ということは人類にとって絶対に必要不可欠なものなのである。

まあ、こんな分析が一番不要なのかもしれないが。
 

育児や仕事、ローンの返済、渋滞に満員電車、家事やご近所トラブルに、大事なプレゼンの前にもかかってしまう神経症、そう、ノイローゼ。健康な人でも一時的、または突発的になることもあり、経験者も少なくないだろう。私の場合はお酒がイッテキも飲めないので、上司との飲み会の前はよくお世話になっていた。ただのユーウツか。

もちろん、抱えている人たちの苦境は、そうではない人には計り知れない。でもそんな暗い話題こそ、思い切って見方を変える必要があるのだ。

例えば、仕事が毎日忙しくノイローゼになる。でも周りから見れば、とてもよく頑張っている企業戦士に見えたりする。夜泣きがうるさく育児ノイローゼにかかるおかあさんも同じ。世話の焼ける子なのに一生懸命だね、と褒められようものなら、また余計に頑張ってしまう。

つまりノイローゼの問題は、ある人がノイローゼを抱えていても、それを知らない人からすれば、見方によっては美しく見えてしまうこと。そして、そんなに神経質になってしまうのは、その人がそのことについてしっかり正面から向き合っている証拠、だったりするのだ。

こうなったら思い切って自慢するくらい、開き直ローゼ?

プロスポーツや職人芸、またはそうでなくとも、針の穴に糸を通すような極限の集中状態を、人はしばしば求められる。「ゾーンに入る」とも表現され、まさに心技体が全てが揃った状態。そしてひとたびゾーンに入れば最大のパフォーマンスを発揮することができる。

ゾーンに入るためにはとにかく集中することが不可欠。交感神経を優位に立たせ、全ての神経を呼び起こす。しかし、極限まで集中するということは、ある意味リラックスしていないとできないことでもある。余分なチカラを抜き、必要な全てのエネルギーをパフォーマンスに変換しなければならない。

つまり、一番集中している状態というのは一番落ち着いている状態だったりするのである。

誰もが道路を公平に、そして安全に通行できるように日々巡回するパトカーや白バイに覆面。または速度超過のドライバーを待ち受ける有人式一般速度取り締まり(通称:ねずみ取り)に無人式のオービス。

そんな取り締まりは、たいていは見通しがきく、スピードが出やすい場所で行われる..。でも、何かが引っ掛かる。『見通しがきく、スピードが出やすい道路』というのは、安全だからこそそうなるはず。見通しが悪ければ当然、よほどのスピード狂以外はスピードは出さないだろう。つまり取り締まりは、たいてい取り締まる必要のないところで取り締まっていたりする。

しかししかし、それも必ずしもそうとは限らない。なぜなら、取り締まる必要のないところで本当に取り締まらなければ、ドライバーは当然スピードを出す。なのでやっぱり取り締まらなければならない。結局警察は取り締まらなくてもいいようなところで取り締まらなければならないのである。

え?ただただノルマのためだって?

お見通し、でしたか。

とにもかくにもマンパワーというのは凄まじく、良くも悪くもそのマンパワーによって、人は数々の不可能を可能にしてきた。手を取り合うことで人は最大限の力を発揮する。と思いきや、それは全体としての力で、個人としてはそうとは限らない。

団体競技、例えば綱引き。

1トンのパワーの持ち主が10人 vs 同じく1トンのパワーを持つ15人では、単純計算で5トンものパワーの差異がある。しかし、いざ始まってみるとなぜか勝負は拮抗し、辛うじて15人が勝った。これはなぜか。5トンもの違いがあれば、10人の方は引きずられて瞬殺されるはず。

答えはシンプル。『手抜き』である。それもたいていは本人は気づいていない。つまり無意識。無意識による手抜きでパワーでも人数でも勝っていたチームは危うく負けるところだった。ん?『無意識による手抜き』とはどういうことか。

これは『リンゲルマン効果』というもので、組織を構成する人数の増加に従い、個人が発揮する力は減少していくものである。つまり仲間が多ければ多いほど自分の実力は発揮されにくいということ。

仕事でも、スポーツチームでも、政治でも、少数精鋭でこそ、個人のチカラは最大限発揮される。

 

仕事や恋愛、人間関係などに行き詰まったとき、ヒトは気分転換という行動に出る。溜まったものを吐き出さなければ、いずれパンクしてしてしまうからだ。旅行やゲーム、子どもやペットと遊んだり、散歩、タバコ、マッサージ、パチンコなどなど、その手段は様々。

さて、アタマを一度リセットすることで、結構な確率で何かひらめいたりする。しかし、よくよく考えると「なぜこんなカンタンな答えが最初から出てこなかったのだろう?」「なぜ行き詰まったのだろう?」と、思うことは少なくない。

それもそのはず。アタマの中は日々の業務や問題でパンパン。新しいアイディアが浮かぶすき間すらなかったのである。つまり、だ。アイディアが出なくなったから気分転換する人は、気分転換をしなかったからアイディアが出なかった、とも言えるのである。



日本列島は夏真っ盛り。ジリジリと照りつける太陽のもと、必然的に肌を露出する機会が増える。セクシーな衣装に身をまとうの女性たち。いささか目のやり場に困りつつも、バテ気味ボディの「エナジー補給」にとガン見する。

ま、それはさておいて、意中の人や、パートナーの気を惹こうと、または、世の男性の目線を根こそぎいってやろうと、思い切った露出を展開する女性は少なくない。しかし、それはかえって効果が低い。

というのも、ただ露出が増えればセクシーか、というわけではなく、適度に隠れているからこそセクシーで、人目を惹き付けたりする。そう、絶妙に隠されれば隠されるほど、世の男性は本能を隠し切れなくなるのだ。


 

ポテトチップスを買えば野球選手のカードがついていたり、缶コーヒーを買えばフィギュアやミニカーがついてくる。いわゆる『おまけ』。

カードは野球好きにとってはたまらず、レアになればそれなりのプレミアがつくほど。フィギュアやミニカーもいまのはとても精巧にできており、集め甲斐がある。

しかし、それらを単体で買おうとも、基本的に非売品なので、ネットオークションやマニア向けの店にしか取り揃えていなかったりする。

それゆえ、チップスやコーヒーがあまり好きでない人も、おまけ欲しさに商品を購入しなければならない。まぁ、嫌いではないので一応口にするのだが、せいぜいおまけ程度。そう、つまり、コーヒーのおまけが欲しい人にとっては、コーヒーそのものがおまけ。

ちなみに、コーヒーの原産国エチオピアでは、プロポーズの際にしばしばコーヒーが使われるそうです。おまけの "豆" 知識でした。


地球上のいたるところに存在し、その多くは病原体としてしられる細菌。その細菌を殺してしまおうというのが『殺菌』である。現代人は菌を嫌い、増殖する菌を人類の最大の敵と見なす。

しかし、菌を殺し過ぎればやがてその反動が人々に襲いかかる。というのも、例えば、小さい頃から外で元気よく遊び回っている子供の多くは、菌や微生物への耐性ができており、アトピーやぜんそく、その他の感染症にもかかりにくいそうだ。

つまり、あんまり殺菌し過ぎると、かえって細菌に弱くなってしまう、とも言えるのである。

なんでも神経質になり過ぎるのは、よくないですね。

 

新聞、テレビ、インターネット、クチコミ、twitter、facebook..。日々、世の中にあふれ返る情報群。そんな情報は鮮度こそ命で、新鮮なうちに我先にと、ときには時間やお金、さらには大切な人を犠牲にしてまで、人々は情報を収集する。

しかしそれゆえに過度に雑食となり、好きでもないタレントのプライベートや、知り合いの「◯◯なう」「XXわず」「△△うぃる」までもインプット。情報収集に歯止めが利かなくなり、ついには必要のない情報まで気になって仕方がなくなってしまう。

キケンだ。情報をインプットするということは、次からその情報を頼り、ものごとを判断しやすくなる。そのことについて深く調べたり考えたりという行為が前よりも要らなくなる。つまり、情報が増えれば増えるほど人は考えなくなる。

食事と同じように、知識も人間が一度に吸収できる量はたかが知れてます。情報のダイエットが現代人には必要不可欠でしょう。

え?この情報もいらなかったですか。

 

非凡と平凡。

一般的に、才能があり、フツーではない、非凡なものに人々は群がる。一方で、優れた特色もなく、面白みに欠ける平凡なもののことは無視同然。

そうなればもちろん、人は自然と躍起になって非凡を目指す。ところがどっこい、非凡になろうとすればするほどいつのまにか平凡になっていく。結局多くの人がそうなろうとしているからだ。

つまり、「非凡になる」ということほど平凡なアイディアはないのだ。

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